2009年06月19日

サットンの染色体説はすぐには受け入れ

ほぼ完成した仮説であったにも関わらず、サットンの染色体説はすぐには受け入れられなかった。理由はいくつかある。まず当時はメンデルの法則が再発見されて間もないころであり、遺伝子の存在に対してすら懐疑的な学者も多くいたことは留意する必要がある。染色体説を実証したモーガンも粒子遺伝をすぐには受け入れなかったし、自らが証明することになる染色体説に対しても確証する結果が得られるまで長らく懐疑的だった。また染色体の数は遺伝子の数に比べて圧倒的に少なく、しかも線状であるため、粒子状の遺伝因子のイメージと相容れないものがあった。もう一つ大きな理由は、サットンの仮説が観察のみに基づくものであり、実証がなされなかったことである。他の研究者を納得させるには、実験による実証を必要とした。しかし、バッタを用いていたサットンはこれを可能にする遺伝学的な術を持たなかったし、他の多くの研究者も同様だった。「遺伝学 Genetics 」という言葉が作られるのは1906年のことであり、遺伝学はまだ揺籃期にあった。実証はモーガンらによる遺伝学の発展を待たねばならなかった。

染色体が遺伝子の担体であることを実証したのはトーマス・ハント・モーガンと彼の研究室が輩出した、いわゆるモーガン学派の研究者達である。彼らは飼育が容易で世代交代の速いショウジョウバエを用いて遺伝学を発展させ、変異体の交配による遺伝学的解析と染色体の観察から、染色体説を実証していく。古典遺伝学の発展と染色体説の実証は、彼らの研究成果の表裏であると言うこともできる。
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1904年、ウィルソンの招請によりジョンズ・ホプキンズ大学からコロンビア大学に移ったモーガンは、発生学から転向し、1907年ごろからショウジョウバエを用いた遺伝学研究を始める。染色体説を提唱したサットンを輩出した細胞学の大家ウィルソンとの交流は、モーガン学派による染色体説の発展を促進した。

モーガンは1910年に最初の突然変異体 white (白眼)を発見し、これを用いた交配実験の結果から遺伝子と染色体の関連性を強く示唆する結果を得た(右図参照)。ショウジョウバエのX染色体は1908年にウィルソン研究室のネティ・スティーブンズによって発見されており、メスはX染色体を2本、オスは1本もっていることがわかっていた。純系赤眼のメスと白眼のオスを交配させると、次世代ではオスメスともに赤眼の個体が得られた。これは赤眼が白眼に対して優性なためである。ここで得られたメスと赤眼のオスを交配すると、次世代においてメスは全て赤眼だったが、オスでは赤眼と白眼が半分ずつ生まれた。白眼の変異がX染色体上にあり、伴性遺伝するためと考えると、この現象をうまく説明できる。この結果をより普遍化すると、染色体と遺伝との関連性が明確に示唆されていると言える。


2009年06月01日

阿片戦争

阿片戦争(あへんせんそう、英:First Opium War, First Anglo-Chinese War)は清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となった戦争である

当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ[1]、イギリスの大幅な輸入超過[2]であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
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清では、既に1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、アヘンの輸入代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転[3]、清国内の銀保有量が激減し銀の高騰を招いた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動し、銀貨1両に対して銅銭1000文程度であったものが、銀の高騰により銀貨1両に対して銅銭2000文という比率になった。この頃の清では、税金を銀貨で納付するよう規定していたことから、日常生活で銅銭を使用し、税金の納付において銅銭を銀貨に交換していた農民は納める税金が2倍になった計算である。さらに銀が不足し値が上がる事は物価が下がる事と同義であり、清の基本的な税制である地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。

この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要はアヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。

林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて焼却処分した[4]。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。そこで、クェーカー教徒の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。

2009年04月29日

比較神話

日本神話の中には、他の神話との関連性を指摘されている物が多く存在する。

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ギリシャ神話に於けるオルフェウスの黄泉の国行きと伊弉諾尊の黄泉の国行き、デメテルと天照大神が隠れると草花が枯れるなど多くの類似点が見られると言われている(→死と再生の神)。
アポロンのカラスと八咫烏、中国の金烏は何れも太陽神の使い、元は白い、星図によっては烏座が三本足のものもあるなど類似性を指摘されている。(三本足のカラスについては、一説には太陽黒点の図形が起源ともいわれている。)
アレキサンダー大王の説話と神武天皇の遠征と類似しているという説もある。
イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は南アジアからポリネシアにかけて広くみられる。
イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが「最初の死人」が「死の国を支配する神」となる話は古代エジプトのオシリスやインドのヤマなどに見られる。
イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに筑紫の日向にて行った禊のときに左目を洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツキヨミ(月)が誕生したという話の類似例としては、中国神話において創造神たる盤古の死体のうち左目が太陽に、右目が月に化生したとされる話が見られる。
因幡の白兎が、海を渡るのにサメを騙して利用する話があるが、動物が違えど似た内容の昔話が南方の島にある。

2009年04月14日

中国武術の一般名

1911年に馬良が「新武術」という名称を著作『中華新武術』で提唱。
1927年に中華民国の張之江が「國術」という統一一般名称を提案採用される。
1928年に張之江は中央國術館を設立。
1952年中華人民共和国の国家体育運動委員会の運動種目の名称を「武術」とした。
中華民国では「國術」のまま存続した。
1980年ごろ新武術というあらたな種目も提案される。

分類 [編集]
中国の武術は有名なものだけでも400種類以上と言われ、その全てを網羅することは不可能であり、また分類整理も完全とは言えない。中国の武術をいくつかに分類する方法があるが、いずれも異論がある。

外家拳と内家拳 [編集]
少林拳のように筋骨、体力を鍛え、体を外面から強くして剛力を用いる武術を外家拳と呼び、太極拳のように呼吸や内面を鍛えて柔軟な力を用いる武術を内家拳と呼ぶ。しかし、実際には少林拳も初期の練習でこそ筋骨を鍛えるが、練度が進むと内面を鍛え、逆に、太極拳にも剛の力が多く含まれている。武術を深く理解しない者が表面的な技法のみを見て行った分類だと考えられることから、現在では重視されることはほとんどない。

ただし、太極拳、八卦掌、形意拳、六合八法拳の四つの門派がその他の武術と大きく異なる風格を持っているために、これらを単に総称して内家拳と呼ぶ場合があり、その場合は前述の剛柔の定義にはこだわらず単に名称的分類と考えられている。また、少林拳は仏教の寺院で学ぶ武術であるので出家した者、即ち家の外にいる者が修める武術であるので外家拳、太極拳は出家しない道教の信者、即ち家の内にいる者が学ぶので内家拳である、とする説もあるがあまり一般的ではない。別の説として、黄百家の「内家拳法」がある。しかし、一般的に言われる内家拳との関係は不明であり、また太極拳との関係も不明である。

少林派と武当派と峨眉派 [編集]
多くの武術が少林寺の武術を起源とする伝説を持つことから、少林拳を含めて数多くの武術を少林派と呼び、太極拳の創始者とされた張三豊が修行した場所が武当山であることから太極拳を武当派武術と呼ぶ。しかし達磨大師の伝説も張三豊の伝説も信憑性が薄いことから、この分類自体ほとんど価値がない。太極拳の門派の者が少林拳門派に対抗意識が強いために、2つの門派が対等で対立しているという発想から無理に考えられた呼称であるように思われる。別の説として、1928年に南京中央国術館が開設され、当初は学科として、少林門と武当門が設けられた。武当門の中に武当拳、太極拳、形意拳、八卦掌などが含まれていた。後に学科の分類は改められた。

北派と南派 [編集]
狭義では、北派少林拳と南派少林拳のことを指す。河南省嵩山少林寺とは別に、中国南部の広東省か福建省に南少林寺があり、嵩山少林寺を起源とする武術が北派少林拳、あるいは単に少林拳と呼び、南少林寺を起源とする武術を南派少林拳と呼ぶ。清代の反清復明運動(満州民族の王朝である清を倒して、失われた漢民族王朝である明を復興させようと言う秘密結社的活動)においてその拠点が南少林寺であり、その活動の中で発達した武術が南派少林拳であるという伝説がある。南少林寺はあくまで伝説上の存在とする説が有力であり(唐豪(『少林拳術秘訣考証』)、近年まで南少林寺の存在自体が架空のものであるとされていたが、南少林寺に関するものと思われる嵩山少林寺で発見された古文書や福建省に南少林寺のものと思われる遺跡が発見されたとして、現代では実際に存在したのではないのかとする説も現れている。南少林寺の真実の解明については今後の研究が待たれる。なお現在、福建省泉州市に存在する「南少林寺」は新たに建立された寺院である。

北派と南派という名称は広くは中国北部と南部で行われている武術を指す(南北の境界は長江)。南拳北腿と言われ、南派は拳、即ち手や腕を多く用い、北派は腿、即ち蹴りを多用すると言う意味である。北部は平原が多いために移動や跳躍や蹴りの多い武術が発達し、南部は川を船で移動することが多く狭い場所・揺れる場所でも練習できる武術が発達したという説があるが真偽は定かではない。確かに中国南部における武術には主に上半身を用いる武術が多く見られ、北部では少林拳、査拳など蹴りが多彩な武術が多いことは事実であるが、南部でも莫家拳の様に蹴りを得意とする武術があり、北部にも形意拳、八極拳、翻子拳と言った蹴りの少ない武術があるので、必ずしも正確とは言えない。 長江以南では、広東省や福建省を中心として北部の武術とは異なり上半身を多く使い、下半身は安定させて移動は少なく力強い拳を打つといった南部特有の共通した風格を持つ武術が多く見られるために、現代でもこれらの武術は総称して南拳と呼ばれる。長江以北の武術は太極拳も少林拳も含まれる。即ち外家も内家も北派の内であり、共通点が無いものが多いせいか北拳という呼称はほとんど聞かれない。

実際に練習をしてみれば分かるが、蹴り技は運動量が激しく真夏の炎天下に練習を行えば体力の消耗が激しい。また拳技は冬場は手がかじかみ自身の拳を傷つけやすい。 こういった気候的風土の違いから温暖な南部では拳技が発達し、寒冷な北部では蹴り技が発達したとも考えられる。

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2009年03月30日

ざる(笊、bamboo basket)

ざる(笊、bamboo basket)は、竹を細く薄く裂いたものを網状に編んで作られた容器。

道具、調理器具のひとつで、その形状(網状)から、液体や粉末状の物質など、ある程度の大きさ以下の物質を素通しする。類似の器具に、篩(ふるい)がある。

日本に古くから伝わる民具としてのざるは竹を編んだものであったが、近年は針金を編んだもの、無数の穴が空いたボウルのようなもの、合成樹脂製のものなども多く普及している。大きさ、深さ、形状、網の目の粗さなどにより非常に多様な種類があるが、一般的には丸い形状で浅く窪んだものを「ざる」と呼ぶことが多い。

なお、同様の道具でもある程度深いものは籠(かご)と呼ばれる事が多いが、あまり厳密な区別はなされていない。水切りなどの目的で一時的に食材を乗せる用途のものを「ざる」と呼び、保存などの目的で一定期間内容物を入れておくためのものを「かご」と呼ぶとする人もいる。

用途
ざるは一般に、水洗い後の野菜や磨いだ米、茹でた食物などの水分を切る場合に用いられることが多い。日本以外でもパスタの湯切りや野菜の水切り等にcolanderやstrainerと呼ばれる水切りが使われるが、日本ではこれらもざると称される場合がある。讃岐うどんの再調理などに使われる径が小さく深底の特殊なざる「鉄砲ざる」(略してテボ、てぼざるとも言われる)もこれにあたり、その名の由来は一説に「(うどんの)玉」を入れて(再加熱のために)茹で上げるからと言われている。(鉄砲の弾との語呂合わせ)

従来の竹製のざるは、ざるそばや枝豆など、食品を載せるための皿にかわるものとしても用いられる。これらは、茹でたものをざるで水切りして出す、という体裁を取ったものである。温めた豆乳ににがりを混ぜ、ザルの上にあけ水分を切り固めるとざる豆腐となる。また、ざるの上で梅干しや干物などを干す場合もある。

特に竹製でないざるの場合、ふるいがない場合に代用品として利用する事もある。特に、潮干狩りなど、目的のものを砂から分別する場合にも使用される。また大型のざるは、稲やソバ等穀物の昔ながらの手作業の脱穀に使われてきた。

かつては川魚、ドジョウなどを獲る時の道具としてもよく用いられていた。

用途によるざるの進化 [編集]
サラダ用の野菜等の水切り用途のざるとしては、深いざるにハンドルと歯車がついていて、高速で回転させる事により、遠心力を利用して効率的に水切りをするためのアイデア商品も開発され、市販されている。

基本的にはボウルであるが、その縁の一部分が穴の空いたざる状になっているものもある。これは水を溜めて使う用途と水を切る用途の両方に使えるため、米を磨ぐ際に便利である。

ざると文化 [編集]
民謡安来節(どじょうすくい)の踊りの小道具として、魚籠とともにざるが使われる。
笊かぶり犬は江戸の郷土玩具。写真
落語演目 「米揚げ笊(いかき)/いかき屋」(上方落語)/『ざる屋」(江戸落語) いかき(笊籬)は関西方面のざるの古い呼び方。
ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

比喩 [編集]
ざるは大きなものは通さないが液体や細かなものは通してしまう事より、チェックなどが甘い事を「ざるのような」と表現することがある。例えば、

法律があるにもかかわらず、その規定に抜け穴・抜け道があって問題があるために、法律で取り締まりたい対象がきちんと取り締まれないような場合に、「ざる法」と揶揄される。
チェックの甘い会計は「ざる会計」と呼ばれる。
素人の下手な碁のことを、(多くの場合自ら謙遜する文脈で)「ざる碁」という。
対戦型のスポーツ競技やゲームにおいては、守備力・防御力が劣っているチームや選手などに対する蔑称として用いられる。「ウチのチームは、ゴールキーパーもディフェンスもザルだから・・・」などと自嘲表現として用いられる場合もある。
液体がいくら入ってもあふれる事がないことから、大量の酒を飲んでもなかなか酔わない人の事を「ざる」と呼ぶことがある。

ことわざ・故事成語・いいつたえ [編集]
笊(ざる)舐めた犬が科かぶる/米食った犬が叩かれず、糠食った犬が叩かれる
笊をかぶると背が伸びない/笊をかぶるとものもらいができる
ざるで水をすくうような (いくらやっても無駄な意)
「笑」という漢字は、元々は竹冠に犬と書いたものであったとする説がある。その説によれば、犬に竹ざるをかぶせると前がよく見えないためにずるずると後ずさりし、その様が笑いを誘うのが語源であるとする。

2009年03月14日

バレッタ

バレッタ(Valletta、マルタ語:Il-Belt Valletta)は、マルタの首都。人口6,300人(2005年11月現在)。マルタ島東部にある、港を見下ろすシベラスの丘の上にある。バレッタ(通称チッタ・ウミリッシマCittà Umilissima)は調和したバロック建築の町である。しかし、マニエリスム建築、近代建築を暗示する新古典主義建築の要素をも持っている。バレッタは第二次世界大戦から無傷のまま逃れられなかった。バロック要素を本質的に残しながらも、戦争が市街に大きな傷跡を残した。

聖ヨハネ騎士団(のちマルタ騎士団と称する)が公式に与えた名は、当時の騎士団総長ジャン・ド・ヴァレットにちなんだフミリッシマ・チヴィタス・ヴァレッタ(Humilissima Civitas Valletta、最も謹ましやかなバレッタ市)であった。しかし、堡塁、幕壁、半月堡が建設され、通り沿いにバロック様式建築物の美が建ち並び、スペルビッシマ(Superbissima、最も誇り高い)な都市として欧州の支配者家系のうちで知られるようになった。 マルタ語では単に都市という言葉を意味する口語、イル=ベルト(Il-Belt)として知られる。

のちのイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリは1830年8月に、友人ジョージ・ゴードン・バイロンの推薦でバレッタを訪問した。ディズレーリはバレッタを『紳士が紳士のために建てた宮殿都市』と称した。

歴史 [編集]
バレッタの基礎となる石は、1566年3月28日、マルタ騎士団総長ジャン・ド・ヴァレットの手で置かれた。1565年のマルタ大包囲戦が終わってすぐ後に、騎士団はシベラス半島上に新都市建設を決めた。マルタでの騎士団の存在が強固になるよう、効果的に騎士団を島へ結びつけたのである。都市の設計は、フランチェスコ・ラパレッリが行い、最も重要とされる建物の多くはジェローラモ・カッサールが建設した。ゆえにバレッタは16世紀とそれから後に建てられた多くの建物を誇る市街である。しかし、それらの建物が多くがマルタ騎士団支配時代に建てられている。

ヴァレットが最初の石を置いたのは、現在の勝利の聖母教会の場所である。都市計画はマルタ諸島で新しいもので、不規則に曲がりくねった通りと小路のある他自治体が多い中、新都市は、重要な建物のための制限地域なしに、長方形に設計された。通りは広く真っ直ぐで、一つは市門から始まる中間の通りで聖エルモ砦で終わる。砲台の幾つかは153フィートの高さである。

不運なことに、ヴァレットは都市の完成を見届けることなく1568年8月21日に74歳で死んだ。彼は勝利の聖母教会に埋葬されたが、のちに聖ヨハネ准司教座聖堂が建つと、そこへ移葬された。彼の墓は今、他の総長らの墓に囲まれている。

騎士団が島から追放され、フランスの支配を受けたのち、イギリス支配下のバレッタで建設ブームが起きた。市門は拡大され、建物は打ち捨てられて再建され、家は増築され、民間の計画が設置された。しかし、都市全体とその都市基盤は第二次世界大戦中の空襲で損傷した。19世紀に市の入り口に建てられた壮麗なロイヤル・オペラ・ハウスが失われてしまっている。
ブロース フィンガ チボウ ハロゲン アゴニスト リバタ シェル ハーフ あまおう スカム シャーク ステコミ ジャブ ブレー スリー フィッシュ ポプラ ロユリ ランブル さとち マリン マンディー プラク ヒール ルノー リスト ドオオ ヒット ダンス にしなり ブール マレー ビアン ハイタッチ デッキ エイド タグ最強 ホップ ラッチ サブリ ジェイリ タバスコ ワンダン ステーキ 恋人たち プレス オフィス レイシズ とまや バージャケ

統計 [編集]
バレッタの人口は数年来減少傾向にあり、現在はピーク時の3割となっている。第二次世界大戦後、郊外に町が次々と発展し首都から人口が流出するのが加速した。しかし、バレッタがマルタ一の商業・行政中心地であることは変わりがない。

交通 [編集]
バレッタの公共交通機関はバスで、市門の外に中央ターミナルがある。市街での交通は制限されており、主要な通りのいくつかは完全に歩行者天国となっている。

主な歴史的建築物 [編集]
勝利の聖母教会(en:Our Lady of Victories Church) - バレッタ最古の建築物。
聖ヨハネ准司教座聖堂(en:St.John's Co-Cathedral) - 1578年完成。マルタ騎士団の聖堂であるため、本堂の床面や柱が騎士たちの墓となっている。併設されている美術館には、カラヴァッジオの大作『洗礼者聖ヨハネの斬首』と『聖ヒエロニムス』が展示されている。
カーマライト教会 - カルメル会派教会
マルタ騎士団総長館 - 現在はマルタ共和国大統領府兼国会議事堂。武器庫が博物館となっており、騎士たちの鎧や武具、オスマン帝国の鎧帷子や大砲を展示している。
カスティーリャ騎士館(Auberge de Castelle) - かつて騎士団のカスティーリャ出身者の宿舎。現在マルタ共和国首相官邸
マノエル劇場 - 18世紀に当時の総長アントニオ・マノエル・デ・ヴィリェナの命令で建築。ヨーロッパで使用されている劇場の中で3番目に古い。
ロイヤル・オペラ・ハウス(en:Royal Opera House, Valletta) - イギリス人建築家エドワード・ミドルトン・バリの設計で、1866年完成。第二次世界大戦中の1942年4月、ドイツ空軍の爆撃で破壊され廃墟と化した。現在も修復されていない。

2009年02月26日

ヘレン:ライレーン人の長老

ヘレン:ライレーン人の長老。ヘレンはトロイのヘレンにちなんでキムがつけた名前(他にも色々なあだ名で呼んでいる)。後に正式に改名したとの事。
イロナ:アルデバラン出身だがロナバールへ移住。姓がない為、父親の職業(ポッター:陶工)からキムによりイロナ・ポッターと命名される。アクロバット・ダンスの名手。ボスコーンの下級の工作員だったがキムによって赦免され、後にヘンダースンと結婚する。
ヴァージリア(ジル)・サムズ:ヴァージル・サムズの娘。彼女もアリシアに派遣されたが、レンズマンにはなれなかった。パトロール隊員ではないが、彼らに協力して工作員として働いていた。読唇術ならぬ読筋術(全身の筋肉の微妙な動きや緊張から相手の思考を類推する技術)の達人。
ジョーン・ジャノウィック:銀河系高等研究所意味論研究室室長。山ほど博士号を持つ上に、自己開発でテレパシーと知覚力まで身につけ、その上チェスの元チャンピオンで、しかも美女。クラウドの(公私ともに)よきパートナーとなる。
スラスキン:チクラドリア人。宇宙パイロット。新婚旅行中に難破して救命ボートで脱出するが、銀河文明のオーバーテクノロジーに目をつけたダルジーブに襲われる。そこをクラウドに助けられ、恩を返すべく渦動破壊者号(および渦動破壊者二世号)のパイロットに強引に居座る。
マルレーム:チクラドリア人。スラスキンの新婚の妻。夫にどこまでも従うべく、調理士の肩書き(だけ)で渦動破壊者号に居座る。地球人の目から見ても美女な上に、しかもその正装は面積41平方インチ(マイクロビキニ以下の面積)で、擦り寄られて哀願されたクラウドは断るどころではなかった。
ヴェスタ:ヴェギア人。本名「ヴェズプトゥクン(以下略、地球人には発音不能)」。人生勉強の一環として宇宙旅行中、スラスキンたちと共に遭難。クラウドに救出され、これも勉強と通訳として居坐る。猫型ヒューマノイドの女性だが、いわゆるネコ耳娘ではなく、二足直立した猫に近い姿。
トミー:トミンガ人。本名「小川のしっとりした岸のほとりで恥ずかしげに佇む春の小さな花」。原子力技術者。機関員として居坐る。「ディーゼルトラック並みの体格で、真っ黒な極太の葉巻さえふかしていなければ」一応美女。
フェアチャイルド:放射線学者。地球製薬会社(TPI)の惑星デカ工場の顧問。実験室でトレンコの広葉植物を育て、シオナイト密造を企む。さらに、邪魔者を「事故死」させるため、野放し原子渦動を人為的に引き起こす。ボスコーンとの関連は不明。

それ以外の非ヒューマノイド
第十二ピリニプシ:パレイン人。主任デクシトロボーパー。サムズがレンズを使い、人類史上初めて言葉を交わすことに成功したパレイン人。しかし、言葉は通じても話は通じず、サムズはデクシトロボーパーとは何をどうする職業なのかわからず、ピリニプシの方は銀河パトロール隊の何がどう素晴らしいのかわからなかった。
タリック:パレイン人。パレイン人から見ればかなり異常な存在らしいが、その分地球人に近い。"ウェベゴーン(翻訳不能)"な態度をとった挙句、アリシア行きを承諾。
ネラド艦長:ネヴィア人。ファースト・レンズマン時代の行政官。優秀だが、レンズマンとなれるほどの素質は無かった。本来は『三惑星連合軍』における敵方のリーダー。
ダルジーブ:ナハル人。発展途上惑星ナハルの独裁者。象に似た巨体の背から頑丈な頭と四本の太い腕を生やしたような、知的生物とは思えぬ異様で屈強な外見。真空中でもかなり長い間平気。
ルーダ:ディル人。ナハルの隣星で、同様の発展途上惑星ディルの女戦争大臣。ダルジーブに拉致される。ナハルとディルの基準ではかなりの美女だが、地球人から見るとダルジーブ同様の宇宙怪獣で、助けに来たクラウドはどっちが悪党だかわからなかった。
ナディーヌ:マナルカ人。本名なし(マナルカ人はテレパシーで個人を識別するので、名前がいらない)。女医。恩を返さずば生きていられないと言い張り、船医として渦動破壊者号に居坐る。マナルカ人は男も女も地球人には「包帯を巻いた棒杭」にしか見えないので、美女かどうかは不明。
ヨツバ コルヒチ モネ しおざけ ネルガ ポッド あめりか フレーズ めいわ ラッピ ビンカミン ハザード ソロモン サブライ イシミカ ナシ ティング トラス プライス インチ ネオン コスト ミラショーン レコード カカオマス 白い微笑 ハンドメイド チェンジ Sロガー レンディー パネル 霜の花 レモン テレワ スター ラオオ チュニス ナビラメ きょくし ぽろり モデラート レンジ はさま ハマメリス プログラ ルフィ アゲート フクジ トリッキー マツバ

キムが使った偽名およびその人物
スター・A・スター:ジャーヌヴォン潜入にあたり、失敗した際に敵に与える偽情報として、キムとウォーゼルが考案した架空のレンズマン指導者。その後、最後までボスコーン側では(エッドア人までもが)真実であると信じ込んでいた。
チェスター・Q・フォーダイス:キムの偽名。ただし「本物」が存在するらしい。宇宙の有閑紳士。ひげを生やしている。ラデリックスで使用。
ウィリアム・"ワイルド・ビル"・ウィリアムス:キムの偽名。元は優秀な技術者で、酒と麻薬(ベントラム)で身を持ち崩し、隕石鉱夫になった、という設定。キムはこの役を演じる為、演技ではなく実際に麻薬中毒者となった。ユーフロジーヌ及びトレッシリアの潜入捜査の際に使用。
モーガン:キムの偽名。卒業したばかりの新任のレンズマンで心理学者であり、"スター・A・スター"から最初の任務としてジャーヌヴォンへの潜入調査を命じられた、という設定。失敗した場合に敵に情報を渡さない為、モーガンとなっている間、ウォーゼルの暗示によってキムの記憶は封印されていた。
カーティフ:キムの偽名。宝石故買業者。ロナバール探索の為に使用。
トラスカ・ガネル:キムの偽名。スレール潜入の際に使用し、本物のガネルと入れ替わって出世を重ね、遂にスレールの独裁者に登りつめた。本物はパトロール隊によって処分されたと思われる。
サイブリー・ホワイト:キムの偽名。小説家。実際にスペースオペラを書き、『水星人カドゴップとシンシア』のシリーズは後に傑作と認められたらしい。やや太り気味で、度の強い眼鏡をかけている。ラデリックスの擾乱の原因を追求する際に使用。
ブラッドロー・サイロン:キムの偽名。個人用の強力な戦艦を持つズウィルニク(麻薬業者のこと。ただし、この呼び名は彼らの間ではタブーとなっている)。カロニアのブラック・レンズマン捕獲の際に使用。

アリシア人
導師(メンター):レンズマンたちの指導者。「メンター」は英語で「賢明で有能な相談役」を意味する呼称。
造成者(モールダー) : ドロウンリ、ブロレンティーン、ネダニラー、クリーディガンの4人。地球は主にドロウンリの担当。彼らの融合体がメンター。
ユーコニドール:若き監視者。
エンフィリスター:エッドア人と最初に接触した若き学究。

ボスコーン(ボスコニア)陣営
ヘルマス:カロニア人。第一銀河系のボスコーンの軍事組織を統括していた。
ブレークスリー:地球人。ボイッシア基地の通信員。本心ではボスコーンを嫌悪し、組織から足抜けしたいと思っていた。キムにコントロールされて基地の壊滅にひと役買った。
デッサ・デスプレーンズ:下級工作員。相当な美女であり、候補生時代のキムを誘惑し、任務を妨害しようとするが惜しくも失敗。それ以来キムは女性がやや苦手になったほど。任務でキムと再会するが、彼に情報を与えない為に、義歯に仕込んだ薬品で記憶を抹消する。結局記憶は回復せず、やむなくキムは彼女に日常生活に不都合がない程度の偽の記憶を上書きせざるを得なかった。
ストロングハート:小惑星ユーフロジーヌの闇酒場「マイナーズ・レスト(鉱夫休息所)」の経営者。ボスコーンの下級幹部。
ジャルト:カロニア人。ヘルマスの死後、第一銀河系の軍事・麻薬両面の統括を引き継いだ。
プレリン:カロニア人。麻薬組織の幹部。表向きは貿易業者ハワード・ウェンブルスンとして麻薬取引を監督していた。
クラウニンシールド:カロニア人。麻薬組織の高級幹部。表の顔はトレッシリアの高級クラブ「クラウン・オン・シールド」の経営者。
デルゴン上帝族(オーバーロード):ヴェランシア人の宿敵。後にアイヒ族と出会い、ボスコーンに協力するようになる。
アイヒラン:アイヒ族。ボスコーン評議会の主席。自らアリシア破壊を試みるが、ユーコニドールによって返り討ちにされる。
アイヒミル:アイヒ族。ボスコーン評議会の次席。アイヒランの死後主席に昇格。
アイヒアンプ:アイヒ族。ボスコーン評議会の第八席。心理学者。アイヒランにアリシア攻撃を進言し、同行して共に命を落とす。
メンジョ・ブリーコ:惑星ロナバールの独裁者。ボスコーンの中級幹部。
カンドロン:オンロー族。アルコンの閣僚。優秀な心理学者で謀略担当。スレール及びオンロー陥落後は上位の組織と連絡をとり、銀河文明に対する数々のテロ攻撃と、第二段階レンズマン(特にナドレック)の抹殺に血道を上げていた。
アルコン:惑星スレールの独裁者。実体はフォステンの傀儡。
トラスカ・ガネル:スレール人。近衛師団の少尉。キムが変装の為利用した。
フォステン:惑星スレールの総理大臣。その正体は・・・。
ラニオン:キムがガネルとして登用したスレール人閣僚たちの筆頭。後に政治的に転向、スレール帝国の「銀河文明化」に貢献。
メラスニコフ:カロニア人。ブラック・レンズマン。
クレオニー:ライレーン人。ヘレンの血族のひとり。後にブラック・レンズマンとなる。
メンドナイ:カロニア人。カロニア正規軍の第一司令官。
プルーア人:エッドア人の下でボスコニア帝国の最上層を担う。母星である恒星ロンティエフが極端な変光星なため、プルーア人は四季によって変態する。標準的十段階分類表記に従えば、春期はTUUVWYXXWT、夏期はRTSLQP、秋期はVWZYTXSYZY、冬期はZZZZZZZZZZである。
クロンジェネス:エッドア人。エッドアの物理学者。
主上陛下(アルティメット・シュープレマシー):エッドア人。絶対的至高者(オール・ハイエスト)とも。エッドアの最高権力者。
ガーレーン:エッドア人。エッドアの次席。グレー・ロージャーの本体。他にも暴君ネロやヒトラーなど様々な仮の姿で地球の文明に干渉して来た。ボスコニアで最初にアリシア人の計画の一端に気づくが、既に手遅れとなった後であった。
グレー・ロージャー:謎の宇宙海賊。移動小惑星を建造し、三惑星連合軍を脅かした。ネヴィア人の介入と三惑星連合軍の新兵器に敗れる。不老不死との噂あり。
モーガン:地球人。ファースト・レンズマンの時代のボスコーンの地球方面責任者。国民党の大物で北アメリカ上院議員。
ジェームズ・"ビッグ・ジム"・タウン:地球人。暗黒街のボス。モーガンの下で軍事組織を統括していた。
アーチボルト・アイザークスン:恒星間スペースウェーの経営者。モーガンの下で麻薬取引を監督していた。
ウィザースプーン:地球人。名前のみ。国民党推薦の北アメリカ大統領。モーガンの部下で政治取引を監督していた。典型的な腐敗政治家。再選をかけた選挙でロッド・キニスンに雪崩的大敗を喫する。
マーガトロイド:名前のみ。タウンの部下でボスコーンの艦隊司令。当時は単なる宇宙海賊と考えられていた。
ハーキマー・ハーキマー3世:モーガンの腹心で筆頭秘書。プレイボーイの皮を被ったシリアルキラー。
ウィロビー船長:貨物船ヴァージン・クィーンの船長。嵐の惑星トレンコに上陸班を下ろし、トレンコの広葉植物を採取させる役。ボスコニア人の常として、部下には厳しいが、上級者あるいはそうなる素質を持つ者には卑屈である。
クランシー:惑星エリダンの鉱山支配人。トレンコの広葉植物を、鉱石精錬所に偽装した麻薬工場で宇宙最凶の麻薬シオナイトに加工、地球のアイザークスンに発送する役。
オスメン:金星人の大物実業家。アイザークスンの配下からシオナイトを受け取り、売人たちに流す役。
ファーナルド:カロニア人。モーガンの上司。なぜかプルーアの事まで知っていた。
スクルワン:名前のみ。アイヒ族。当時のボスコーン評議会の第一席。
コランダー:ペトリン人。ボスコーン艦隊の指揮官の一人で、階級は中将。後に惑星ペトリンを挙げてサムズに降る。ペトリン人で最初のレンズマンとなる。
オーランサー:ペトリン人。ボスコーン艦隊の指揮官の一人で、階級は中将。典型的な頭の固い軍人で、最初は降伏をがえんじなかったが、コランダーらに説得されてサムズに降る。

2009年02月09日

大化の改新

大化の改新(たいかのかいしん)は飛鳥時代の孝徳天皇2年春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件を大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったという。
月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

しかし、大化の改新といわれる一連の改革は、『日本書紀』編者による創作ないしは後世の過大評価であるとし、その存在を疑う説が近年提示されている。

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(天皇家)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子と接触するも、その器ではないとあきらめる。

そこで鎌子は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。

この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変(いっしのへん)という。

新政権の発足
皇極4年(645年)6月14日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子で政治の実権を握っていたことを模したものであると推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣(うちのおみ)を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

天皇 孝徳天皇、皇太子 中大兄皇子
左大臣 阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)、内臣 中臣鎌足
国博士 高向玄理(たかむこのくろまろ)、国博士 旻(みん)
6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

8月5日、東国に国司(くにのみこともち)を遣わし、新政権の目指す政治改革を行うこととした。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。

鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。

9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇とされていたが、乙巳の変の後出家し吉野へ逃れていた。

12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。

大化の改新の概要
大化2年(646年)1月に改新の詔を出した。この改新の詔を持って大化の改新の始まりとする。先の蝦夷・入鹿暗殺からとする場合もある。

詔として出された主な内容は以下の四条である。

それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。(公地公民制)
今まであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした(国郡制度)。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、現在の令制国の姿に整えられていった。実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)
また詔の四か条に無いが、その他の制度に対しても大きな改革が行われている。

薄葬令
今まで自由に作れた陵墓を身分に合わせて作ることの出来る陵墓を規定し直した。殉死の禁止や、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなど、さまざまな制限が加えられた。この薄葬令によって古墳時代は事実上終わりを告げる。
習俗の改革
男女の法の整理
交通問題の解決
伴造、品部の廃止と八省百官の制定
従来の世襲制の役職であった、伴造、品部(しなべ、しなじなのとものお)を廃止し、特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、物部氏であれば、軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る)。これと八省百官の制定によって官僚制への移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行うと言う様に世襲制が残った役職もあった様である)。
大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の廃止
大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣・右大臣に置き換わった。大臣は臣の姓(かばね)から、大連は連の姓から出されることに成っていたが、左大臣・右大臣(後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無くなった。
冠位制度の改訂
聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し、大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→天智3年(664年)二十六階へと改めた。これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした序列をつける為の改革だと思われる。冠位の数が年々増加していったのは、官僚制への切り替えにより下級官僚に与える冠位が不足したからと推測できる。(冠位・官位制度の変遷)
礼法の策定
職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。冠位の無い良民は白い衣を身につける事とされ、これは白丁(はくてい)と呼ばれた。
大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報を元に唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一度に変える事は不可能な為、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ進んだ法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。

ただし、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安となり、この頃から大きな政治改革の動きが少なくなる。650年に年号が白雉と改められ、一般的にはこの改元をもって、大化の改新の終わりとされている。

その後
孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、群臣もこれに従い、孝徳天皇は全く孤立して翌年に憤死する事件が起きている。皇太子の中大兄皇子は即位せず、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。

斉明天皇時代は阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち支配権を拡大させた。一方、政情不安は続き、658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑されている。

660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇とともに自ら筑紫へ赴くが、天皇はこの地で没する。662年、百済復興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗して壊滅した。

日本は朝鮮半島への足掛かりを失い、日本は大国唐の脅威にさらされることとなった(668年には高句麗も滅亡)。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築き、防人や烽を設置し、大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて豪族との融和を図るなど国土防衛を中心とした国内制度の整備に力を注ぐことになる。中大兄皇子は数年間称制を続けた後に、668年に即位した(天智天皇)。670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての律令法典である近江令を施行している。

671年に天智天皇が死去すると、天智天皇の子の大友皇子と弟の大海人皇子が争い、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が勝利して即位した(天武天皇)。天武天皇は改革を進めてより強力な中央集権体制を築くことになる。

大化の改新の疑問点
この一連の改革が歴史家によって評価の対象にされたのは意外と遅く、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出したと言われている。

なお、大化の改新といわれる一連の改革は、『日本書紀』編者による創作ないしは後世の過大評価であるとし、その存在を疑う説もある。また、大化の改新に関してはいくらかの疑問点がある。

詔の発布日が春正月甲子朔すなわち正月一日である点。年の変わりに詔を出す事は余り無く、正月一日に発布された可能性が少ないのではないかと言う指摘がある。
「郡」(こおり)と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降、それ以前は「評」(こおり)を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)が所有する部曲(かきべ)や田荘(たどころ)の領有権は認められていた。
戸籍、計帳、班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
元号が飛び飛びであり、元号が無い時代が存在する。実際に元号制度が定着したのは大宝元年からであり、それまでは元号制度が存在したか疑わしい部分もある。
大化2年(646年)に出された薄葬令により天皇で初めて「火葬」され、夫であった天武陵に「合葬」されたのは持統天皇が最初である。詔を発したとされる孝徳天皇が「薄葬」でない(孝徳天皇は654年に、持統天皇は703年に崩御)。
蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子は死んだが、大化の改新で、いとこの蘇我倉山田石川麻呂は右大臣になっており、蘇我氏は、大化政権にとっても未だ無視できない勢力を保っていた。孝徳天皇4年、石川麻呂は冤罪で自殺に追い込まれているが、これも大化の政権の政権基盤が脆弱だった可能性を示している。そして、一度蘇我氏の勢力圏の飛鳥から難波宮に移動しながら、蘇我氏の勢力圏である飛鳥に再び戻っている。天智天皇の時代になってようやく、飛鳥から近江へ朝廷を移すことが可能になった。しかし、壬申の乱で、大海人皇子が勝つと再び朝廷は飛鳥に戻っている。天皇家が飛鳥の地を離れられたのは694年の藤原京への遷都からであり、大宝律令が発布されたのは701年である。
以上の点から、7世紀中~後半に、大化の改新と同様な改革が行われたことは、比較的見解の一致するところではあるが、その時期を645年よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もある。中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、天皇家の力を伸ばしていった可能性が高い。また、天皇権力が強くなる理由のひとつとして、壬申の乱の存在を考慮すべきとの考え方も存在する。律令制度が完成したのは、大宝律令からであり、その大宝律令と重ね合わせて解りやすく『日本書紀』には記述した可能性が高い。これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられる。

2009年01月24日

映画の公開等と絡めた関連番組が数多く作成され

ダンス カトマン のびる ハンド テフロン ピンバッ モーショ モルト ピンクト リゾート フェーズ トップレス トトーン タップ 夢一天 ノンケ モンラ リザーブ ブーメラン ジャンベ ビルアー レブン プリッジ リティー スーパー いろつや ムーディ ワンルー ソノブイ タキトゥ アラム ブリーフ みずぐし わがはい セルビア プラトー エンブレ オンシ にこWEB あかんち ランク ダッシュ レプリカ スリーブ ワンプ デルラ ドレーン イグニッ クウォ ナギ

映画の公開等と絡めた関連番組が数多く作成された。出演者、スタッフへのインタビュー、メイキング映像などが多いが中には本格的にドラマ仕立てになっているものもある。設定本等の公式資料ではTVシリーズの再編集版である『ザッツ踊る大捜査線』や「踊る」シリーズの時間軸上で作られたスペシャルドラマ等と特に区別することなく放送日順に列挙されていることが多い。再放送やスペシャルドラマ等がしばしばメイキングや関係者のインタビューと組み合わせた形で放送されているため、これらと厳密に区別できないからと見ることも出来る。特に明記されていないものはフジテレビでの放送である。基本的に映像商品化はされていないが、一部はDVDの特典映像等になっている。

『踊る大予告編』(1998年10月18日)
正式タイトルは、『「踊る大捜査線 THE MOVIE」完成記念番組 踊る大予告編 秋の全国一斉バイアグラ取り締まりスペシャル』。「踊る大捜査線 THE MOVIE」の予告編として制作された番外編ドラマ。全2部構成。
第1部は「踊る大捜査線」ファンの子供達による「子供湾岸署」を舞台にしたドラマ。
第2部は「亀川プロデューサー」が怪しい女に監禁されるという設定のドラマ。
いずれにも本編のキャストは一切登場しない(木村多江は、映画本編では看護師役で出演しているが)が映画「THE MOVIE」の本編やメイキングのシーンが織り込まれている。
出演者
亀川千広(光石研)
フジテレビプロデューサー。『踊る大捜査線』よりも『ロンバケ』と『ラブジェネ』のプロデュースを担当したことに誇りを感じている。モデルは亀山千広プロデューサー。
リサ(謎のテロリスト)(遠山景織子)
警察庁長官官房広報課長(木村多江)
『踊る』映画化に際し、警察機構の広報責任者として警察のイメージを害していない作品かどうかを検閲する為にフジテレビに乗り込んでくる。
「一般市民」を名乗る男
『THE MOVIE』で小泉今日子が猟奇殺人犯役であるため、公開中止を求めてフジテレビに不法侵入した小泉の大ファン。
『10時間も踊る大捜査線』(スカイパーフェクTV、1999年5月8日)
「踊る大捜査線 THE MOVIE」の衛星初放送に合わせた企画。「THE MOVIE」本編2時間と一緒に放送された8時間にもなる映画のメイキング、NG集などの未公開映像、映画の宣伝とその裏側、映画公開時のドキュメント(公開初日の舞台挨拶など)、キャスト・スタッフの座談会やインタビューなどで構成された番組。映画本編放送の前後で大きく前編と後編に分かれる。
「10時間も踊る大捜査線(前編)」
「踊る誕生秘話」(45分)
「踊る大宣伝作戦」(45分)
「踊る現場大検証その1」(45分)
「踊る現場大検証その2」(45分)
それぞれの前に「見どころ紹介」がある。(各15分)
「踊る大捜査線 THE MOVIE」本編(2時間)
「10時間も踊る大捜査線(後編)」
「踊る大公開初日」(50分)
「踊る大音楽会&タイトルバック」(50分)
「踊る大メイキング」(80分)
「踊る大エピローグ」(30分)
「踊る大エピローグ」を除き、それぞれの前に「見どころ紹介」がある(各10分)
『衛星(スカパー)も踊る大捜査線』(スカイパーフェクTV、2003年6月29日)
「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 200のリンクを探せ」(THE MOVIE 2のメイキング番組)、『深夜も踊る大捜査線2』(地上波より先行しての放送)、「踊る大捜査線 THE MOVIE」の3本立て。
『だから踊る』(2003年7月3日~9月25日)
出演者やスタッフが踊る大捜査線について語る毎週木曜日深夜に放送された放送時間約5分のトーク番組。全13回。織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、君塚良一、加瀬弘行(照明)、芦原邦雄(録音)らが出演。
『満員御礼スペシャル! 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 大ヒットの秘密を捜査せよ』(2003年8月9日)
内容はキャストへのインタビュー、メイキング、THE MOVIE 2公開初日の舞台挨拶など。
『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 これをみれば100倍楽しめるスペシャル』(2003年9月6日)
『交渉人 真下正義 公開記念スペシャル 祝!映画初主演!花の映画スター!ユースケ・サンタマリア誕生』(2005年5月6日)
『満員御礼! 交渉人 真下正義 共演者が語る「真下」の魅力!「ユースケ」の実力!?』(2005年5月12日)
内容は「主演・ユースケ欠席座談会」など
『容疑者 室井慎次 公開記念スペシャル 室井はシロか、クロか?』(2005年8月20日)
『弁護士灰島秀樹放送直前スペシャル』(2006年10月28日)

劇場映画
THE ODORU LEGEND CONTINUESを含む。

『踊る大捜査線 THE MOVIE』(東宝、1998年10月31日公開)
興行収入101億円(日本実写映画歴代興行収入 4位)、観客動員数700万人
『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(東宝、2003年7月19日公開)
興行収入173.5億円(日本実写映画歴代興行収入 首位)、観客動員数1250万人
『踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2』(東宝、2003年12月20日公開)
「THE MOVIE 2」を海外向けに再編集した国際戦略版
『踊る大捜査線 THE MOVIE 3(仮称)』(2009年秋クランクイン予定・2010年夏公開)[1]
THE ODORU LEGEND CONTINUES
『交渉人 真下正義』(東宝、2005年5月7日公開)
興行収入42億円、観客動員300万人
『容疑者 室井慎次』(東宝、2005年8月27日公開)
興行収入38.3億円、観客動員270万人

舞台
『舞台も踊る大捜査線 ザッツ!! スリーアミーゴス 』(2003年8月15日~17日)

DVD特典
NG集
第12話『港区台場レインボーブリッジ付近会社役員絞殺凶悪殺人事件 NG傑作選』
TVシリーズのNG集。「踊る大捜査線(4)」(VHS版)および「踊る大捜査線(6)」(DVD版)に収録されている。
『プロジェクトK』
サブタイトルは『ノンキャリアの申し子』。「K」とは神田署長の頭文字の「K」である。Vシネマで湾岸署神田署長の物語。『踊る大捜査線 THE MOVIE』の犯人であった坂下始と河原崎宗太が神田署長のおかげで更生したという話を語る。全体の構成やタイトルなどがプロジェクトX〜挑戦者たち〜(NHK総合テレビジョン)のパロディーのような作りになっている。
『デカウォーズ』
正式タイトルは『デカウォーズ 第1話 正義の大捜査線!』。刑事ドラマ仕立ての新人警察官募集用ビデオ。湾岸署の映画部が制作したという設定になっている。
『観光案内』
正式タイトルは『お台場観光案内 - おすすめスポットランキング』。渡辺葉子(星川なぎね)と吉川妙子(児玉多恵子)の2人の婦人警官がランキング形式でお台場の観光スポットを案内するビデオ。
『プロジェクトK』、『デカウォーズ』、『観光案内』の3本は「THE MOVIE 2」のための「湾岸署3大VTR」として作成され、湾岸署観光者相談係のモニター映像として「THE MOVIE 2」の中で使用されたほか「歳末特別警戒スペシャル完全版+α」の中でも放送された。その後、「踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2」の特典ディスクに収録された。

『広報人 矢野君一』
矢野君一が担当しているTTRの広報番組において関係者を呼んで交渉人真下の事件を振り返るという設定で、矢野君一が十川誠志、ムロツヨシなどにインタビューする。隠しスペシャル映像として交渉人真下正義プレミアム・エディションの特典ディスク2に収録されている。

書籍
『diary 野口江里子の日記 1983-1985』
室井が大学時代に交際していた女性、野口江里子が書いていた日記という設定で書籍化したもの。この本発売に関しては制作の経緯(作家志望の踊るファンが執筆)もあり、ファンからは賛否両論がある(容疑者 室井慎次DVDのコメンタリーで製作の亀山千広が語っている)。

時間軸
踊る大捜査線シリーズはこの世界設定上の時間軸での1997年1月の出来事を実際の1997年1月に放送する話で始まり、その後も「THE MOVIE」までは放送・公開時期とほぼ同じ時期の出来事を描く形で作られてきた。これは亀山プロデューサーによれば踊る大捜査線シリーズのコンセプトの一つである「リアリティー」の表れの一つであり、映画についても当初は時間軸を大きく遡った時期の話(例えば青島が会社員を辞めて刑事を目指すようになる話など)を描くことも検討されたが結局は上記の原則を踏襲する形となったとされている(なお、2007年1月に放送された「警護官 内田晋三」においても、制作会議の中で「2年だけ遡ろう」という発言が出ていることから見て、「特に必要が無ければ作品中の時間は実際の公開時点と同じにする」という原則はある程度生きていると見られる。また2009年3月の「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」の制作発表においても時間軸がリアルに進んでいる事を前提に青島が係長に昇進している可能性や新人が配属される可能性について言及されている)。しかしその後は描かれている時期と放送・公開時期が次第に離れてきており、「逃亡者 木島丈一郎」では初めて時系列を遡る話になった。「THE MOVIE」以後は映画で描かれた話の前日譚や後日譚をTVドラマ、舞台、DVD特典映像といったさまざまな手段で描く形をとっており、それぞれの話の前後関係が複雑になっているため下に時間軸に沿った一覧表を掲げる。

時間軸 初放送・公開日 区分 タイトル 事件名
1983年~1985年 2005年9月17日 本 野口江里子の日記 -
1997年1月 1997年1月7日 TVシリーズ 第1話サラリーマン刑事と最初の難事件 会社役員絞殺事件
1997年1月 1997年1月14日 TVシリーズ 第2話愛と復讐の宅配便 湾岸署爆弾未遂事件
1997年1月 1997年1月21日 TVシリーズ 第3話消された調書と彼女の事件 盗難傷害事件
1997年1月 1997年1月28日 TVシリーズ 第4話少女の涙と刑事のプライド 連続強盗傷害事件・クラブ傷害事件
1997年2月 1997年2月4日 TVシリーズ 第5話彼女の悲鳴が聞こえない 広域連続傷害事件
1997年2月 1997年2月11日 TVシリーズ 第6話張り込み 彼女の愛と真実 大麻密輸事件・営業マン殺人事件
1997年2月 1997年2月18日 TVシリーズ 第7話タイムリミットは48時間 同上
1997年2月 1997年2月25日 TVシリーズ 第8話さらば愛しき刑事 栗の木坂男性刺殺事件・空き巣窃盗事件
1997年3月 1997年3月4日 TVシリーズ 第9話湾岸署大パニック 刑事青島危機一髪 品川主婦殺人事件
1997年3月 1997年3月11日 TVシリーズ 第10話凶弾・雨に消えた刑事の涙 警察官殺人未遂事件
1997年3月 1997年3月18日 TVシリーズ 第11話青島刑事よ永遠に 同上
1997年12月29日~31日 1997年12月30日 TVスペシャル 歳末特別警戒スペシャル 第一興和銀行強盗人質事件・大凪町マンション強盗殺人事件
1998年4月 1998年6月19日 TVスペシャル 初夏の交通安全スペシャル 小凪町会社役員射殺事件
1998年10月 1998年10月6日 TVスペシャル 秋の犯罪撲滅スペシャル 会社内連続婦女暴行事件・曙荘放火殺人未遂事件
THE MOVIEの直前 1998年10月12日~16日 TVスペシャル 深夜も踊る大捜査線 -
1998年11月21日~23日※ 1998年10月31日 映画 THE MOVIE 副総監誘拐事件・猟奇殺人事件・署内連続窃盗事件
THE MOVIEの後日譚 2003年12月29日 DVD特典映像 プロジェクトK -
2001年9月 2001年9月21日 TVスペシャル 踊る大ソウル線 ゴージャス姉妹強盗殺人事件
2002年3月 未映像化 - - 潜水艦事件
2003年11月16日~20日 2003年7月14日~18日 TVスペシャル 深夜も踊る大捜査線2 -
2003年11月21日~23日※ 2003年7月19日 映画 THE MOVIE 2 連続猟奇殺人事件・連続婦女暴行事件・連続スリ事件
THE MOVIE2の直後※ 2003年8月15日~17日 舞台 舞台も踊る大捜査線 -
2004年10月30日~31日 2005年12月10日 TVスペシャル 逃亡者 木島丈一郎 警察官殺害事件・マンション立て篭もり事件
2004年12月23日 2005年5月6日 TVスペシャル 前日も交渉人 真下正義 -
2004年12月24日 2005年5月7日 映画 交渉人 真下正義 地下鉄実験車両乗っ取り事件・地下鉄車両基地爆破事件・新宿シンフォニーホール爆破未遂事件
2004年12月24日
地下鉄事件進行中 2007年1月27日 TVスペシャル
(トリビアの泉の企画) 警護官 内田晋三 -
交渉人 真下正義の直後 2005年12月17日 DVD特典映像 広報人 矢野君一 -
2005年2月 2005年8月27日 映画 容疑者 室井慎次 新宿3丁目強盗殺人事件
2006年3月 2006年10月28日 TVスペシャル 弁護士 灰島秀樹 (秋葉原大学生殺害事件)

※「THE MOVIE」は事件の数日後に入院している青島を室井と和久が見舞うシーンで、「THE MOVIE 2」は事件の数ヶ月後に室井と青島が表彰されるが青島が新たな事件の捜査のために表彰式をすっぽかすシーンで終わっている。「舞台も踊る大捜査線」では、「THE MOVIE 2」で発生した事件と表彰式との間のひとこまを描いている。
この他に君塚良一の著書「裏ドラマ」の中に刑事ドラマ「デカ・ウォーズ」(DVD特典の『デカウォーズ』とは同名だが別物)にあこがれていた少年時代(1979年とされる)の青島俊作を描いたシナリオが収録されている。石原隆の提案で執筆したものの諸事情で没になったシナリオという紹介がある。君塚は同書の中で、「このシナリオをきちんと作ったことは青島という人物を深く理解するのに役だった」と述べているものの、この話が正規の時間軸の設定に含まれるのかどうかは不明である。
2001年の9月(踊る大ソウル線の時点)よりは前の時点で発生した「柏木雪乃が爆弾入りの縫いぐるみを抱えて東京湾に飛び込んだ」という未映像化の事件が存在する。「踊る大ソウル線」の中で少し言及されているほか「THE MOVIE 2」のエンドクレジットにそのシーンが一瞬映っているがその詳細は不明である。

2009年01月17日

クリティアス (三十人僭主)

カライスクロスの子クリティアス(希: Κριτίας,英:Kritias, 紀元前460年頃 - 紀元前403年)は、プラトンの母親の従兄で、アテナイの哲学者・政治家である。ソクラテスの弟子にあたり、アテナイの三十人僭主政治の指導者となった。母親は、弁論家・政治家アンドキデス(Andokides, 紀元前440頃(467?)–390頃)の父レオゴラス(Leogoras, 紀元前5世紀)の母の姉妹である。プラトンや賢者ソロンとの血縁については、クリティアス (プラトンの曾祖父)参照のこと。

若い頃にソクラテスの弟子となった。プラトンの作品『プロタゴラス』、『カルミデス』の対話設定年代は紀元前433年、432年と考えられるが、これらの作品に若い頃のクリティアスが登場する。後にクセノポンは『ソクラテスの思い出』の中で、クリティアスがソクラテスの弟子になったのは、自身の修練のためではなく、敵の裏をかく技術を会得するという政治的目的のためだったと非難している(Xen.Mem.i.2.12-18)。

ン新世紀 パートナ フコキ センター 真実の愛 オクシ ピンク バッハ マーケッ イスト バッテラ ショットバ レーシ ストラ パンク テレック オクシ スイッチ イエローサ バレル プノンペン 旅への扉 ロック しょうなん ベール スポイト こごみ グース ビンデ ロブス シャーレ リビエラ レーム ガクア スピン ラムネ カナキン トロポニン データフ ほろのべ マイセン テンポラリ きょうきょ ピングカー ザイソ ズロース プレート チュービ ンチェーン シラカン

クリティアスにはディオクレスの子エウテュデモス(Euthydemos, 紀元前5世紀)という同性の愛人がいたが、関係を迫る様を見たソクラテスに豚のようだと皮肉られた。このことをクリティアスは恨みにもったという。

紀元前415年、ヘルメス神の石柱像破壊事件の容疑者として、普段から酒乱で知られたシチリア遠征軍総指揮官アルキビアデス(Alkibiades, 紀元前450頃-404)が疑われる。アルキビアデスはスパルタへ亡命してしまうが、続いて容疑者としてアンドキデス一族が捕まる。その中にクリティアスの名前があるが、アンドキデスらの証言によりクリティアスは解放される(アンドキデス著『秘技について』Andoc.de Mystr.1.47)。

四百人寡頭政治の打倒
紀元前411年、アルキビアデスの政敵であった民主派の首領アンドロクレス(Androkles, ?-紀元前411)が暗殺される。トゥキディデスの師匠とも言われる弁論家アンティポン(Antiphon, 紀元前480頃-411)及び扇動家ペイサンドロス(Peisandoros, 紀元前5世紀後半)が首謀となってクーデターを起こし、アテナイに寡頭派による政権(四百人寡頭政)が成立した。クリティアスの父カライスクロス (Kallaischros) も政権に参加していたが、クリティアス本人が政権に参加していたかどうかは不明である。

四百人寡頭政治は権力闘争により内部分裂を起こし、四ヶ月後プリュニコス(Phrynichos, ?-紀元前411)が暗殺されると、クリティアスは、暗殺されたプリュニコスを弾劾裁判にかけるよう提案し、当初四百人寡頭政の重要なメンバーであったテラメネス (Theramenes, ?-紀元前403) 、アリストクラテス(Aristocrates, ?-紀元前406)らの賛同を得る。同じ頃、サモスで民主政の堅持を訴えていた民主派の軍人トラシュブロス(Thrasyboulos, 紀元前5世紀後半-388)がアテナイへ凱旋すると、四百人寡頭政は崩壊し、アンティポンは処刑され、ペイサンドロスらはデケレイアにあるスパルタの要塞へ亡命した。クリティアスはトラシュブロスらと共に、アルキビアデスのアテナイ帰還を訴え、アルキビアデスはサモスのアテナイ艦隊の総司令官として迎えられる。

紀元前410年、アテナイに民主政が復活する。アルキビアデス率いるアテナイの艦隊がキュジコスの海戦でスパルタ軍を破ると、再び主戦民主派が活気付く。民主派の主導者クレオポン(Kleophon, ?-紀元前404)は、スパルタの和平の申し出を断り、戦争を続行する。アルキビアデスはカルケドンやビザンティオンなどを奪回し、紀元前408/407年頃に祖国アテナイへ凱旋帰国を果たす。

衆愚政治と亡命
紀元前406年、アルキビアデス不在時のノティオン沖の敗戦で、クレオポンらはアルキビアデスの責任を問い、アルキビアデスはトラキアへ亡命する。同年、アルギヌサイの海戦(ペロポネソス戦争におけるアテナイの最後の勝利)で味方の救助を怠った罪でアリストクラテス、大ペリクレスの庶子ペリクレス(Perikles, 紀元前450 - 406)、トラシュブロスと共に四百人寡頭政へ反旗を翻したトラシュロス(Thrasyllos, ?-紀元前406)らを含む6人の味方の指揮官たちがソクラテスの反対にも関わらず処刑された頃、クリティアスも国外へ逃亡する(クリティアスがテッサリアに亡命した時期は不明で、紀元前409年頃からとする説もある)。この時の民衆への憎悪の体験が、彼を恐怖政治へ駆り立てたとクセノポンは『ギリシア史』で証言している(Xen.Hell.ii.3.15)。クリティアスはテッサリアでプロメテウス(Prometheus, 5世紀後半)らのテッサリアの民主化運動に参加したらしいが、その詳細は不明である(Xen.Hell.ii.3.15)。

三十人僭主政の樹立と戦死
紀元前404年、アテナイがスパルタに無条件降伏すると、クリティアスは帰国し、テラメネスらと共に、スパルタの将軍リュサンドロス(Lysandros, 紀元前5世紀後半-395)の武力と保護を背景に三十人少数党派の独裁政権を樹立した。次々に反対派を死刑や国外追放に処し、ソクラテスに「次々に牛を減じて質を悪化させた牛飼い」と皮肉られる。これを受けクリティアスは、ソクラテスに30歳以下の若者との会話を禁じた。またアルキビアデスの人気に危機感を覚え、リュサンドロスに働きかけ、当時プリュギアへ亡命していたアルキビアデスの暗殺を依頼したと言われる。やがて穏健派のテラメネスと過激派のクリティアスは決裂し、クリティアスはテラメネスを処刑した。

紀元前404年の12月、テバイへ亡命していた民主派トラシュブロスが武装抵抗団を組織し、アテナイのペイライエウス港を占領してアクロポリスに立てこもった。紀元前403年の1月、ペイライエウス奪還のためクリティアスは軍を率いるが、ムニュキアの戦いで従弟のカルミデス(Charmides, 紀元前450 - 403)らと共に戦死する。トラシュブロスの一派には、後にソクラテスを告発するアニュトス(Anytos, 5世紀後半-4世紀前半)も所属していた。クリティアスとアルキビアデスの所業は、ソクラテスが死刑となる原因となったと考えられている。

著作
詩作や散文の断片が引用の形で75編伝えられており、そのうちの法律・宗教・道徳を否定した言葉やスパルタの国政を讃えたものは、クリティアスに反民主的な傾向があることを伺わせる(Fr.88B6-9, 25 (DK))。
マルクス・トゥリウス・キケロ (Marcus Tullius Cicero, 紀元前106–43)の『弁論家論』(De orator)によると、当時クリティアスが書いた書物が残っており、その弁論述を褒め称えている。(Cic.De Orat..ii.22)

史料
プラトンの作品『カルミデス』、『プロタゴラス』、及び偽書の疑いのある『エリュクシアス』に対話者として登場する。また『ティマイオス』、『クリティアス』などにもクリティアスの名前が登場するが、これは祖父にあたるカライスクロスの父クリティアスと考えるのが妥当であるが、このクリティアスがカライスクロスの子クリティアスであるという考えも根強い。
アテナイの政局の混乱とクリティアスの所行を伝える史料としては、同時代人の目を通して描かれたトゥキュディデスの『戦史』、クセノポンの『ギリシア史』、『ソクラテスの思い出』がある。特にクセノポンは同じソクラテスの弟子として、厳しくクリティアスを弾劾している。このような考えは、フラウィウス・ピロストラトス (Flavius Philostratus, Philostratos, 紀元170頃–245頃)の『ソフィスト伝』でも受け継がれており、「あらゆる有名な人々の中で最悪な人物」と表現されている(Philostr.V.S.1.16)。然るにプラトンの作品では、そのような性格的欠点は伺えない。
この他アリストテレスの『アテナイ人の国制』、シケリア(シチリア)のディオドロス(Diodoros, 紀元前1世紀)の『歴史叢書』、プルタルコスの『対比列伝』の『アルキビアデス伝』、アテナイオス(Athenaiios, 3世紀前半) の『宴席の智者』など、多数の史書・物語にクリティアスの所業、弁論が断片的に記述されている。