« 阿片戦争 | メイン | 制限行為能力者 »

サットンの染色体説はすぐには受け入れ

ほぼ完成した仮説であったにも関わらず、サットンの染色体説はすぐには受け入れられなかった。理由はいくつかある。まず当時はメンデルの法則が再発見されて間もないころであり、遺伝子の存在に対してすら懐疑的な学者も多くいたことは留意する必要がある。染色体説を実証したモーガンも粒子遺伝をすぐには受け入れなかったし、自らが証明することになる染色体説に対しても確証する結果が得られるまで長らく懐疑的だった。また染色体の数は遺伝子の数に比べて圧倒的に少なく、しかも線状であるため、粒子状の遺伝因子のイメージと相容れないものがあった。もう一つ大きな理由は、サットンの仮説が観察のみに基づくものであり、実証がなされなかったことである。他の研究者を納得させるには、実験による実証を必要とした。しかし、バッタを用いていたサットンはこれを可能にする遺伝学的な術を持たなかったし、他の多くの研究者も同様だった。「遺伝学 Genetics 」という言葉が作られるのは1906年のことであり、遺伝学はまだ揺籃期にあった。実証はモーガンらによる遺伝学の発展を待たねばならなかった。

染色体が遺伝子の担体であることを実証したのはトーマス・ハント・モーガンと彼の研究室が輩出した、いわゆるモーガン学派の研究者達である。彼らは飼育が容易で世代交代の速いショウジョウバエを用いて遺伝学を発展させ、変異体の交配による遺伝学的解析と染色体の観察から、染色体説を実証していく。古典遺伝学の発展と染色体説の実証は、彼らの研究成果の表裏であると言うこともできる。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産


1904年、ウィルソンの招請によりジョンズ・ホプキンズ大学からコロンビア大学に移ったモーガンは、発生学から転向し、1907年ごろからショウジョウバエを用いた遺伝学研究を始める。染色体説を提唱したサットンを輩出した細胞学の大家ウィルソンとの交流は、モーガン学派による染色体説の発展を促進した。

モーガンは1910年に最初の突然変異体 white (白眼)を発見し、これを用いた交配実験の結果から遺伝子と染色体の関連性を強く示唆する結果を得た(右図参照)。ショウジョウバエのX染色体は1908年にウィルソン研究室のネティ・スティーブンズによって発見されており、メスはX染色体を2本、オスは1本もっていることがわかっていた。純系赤眼のメスと白眼のオスを交配させると、次世代ではオスメスともに赤眼の個体が得られた。これは赤眼が白眼に対して優性なためである。ここで得られたメスと赤眼のオスを交配すると、次世代においてメスは全て赤眼だったが、オスでは赤眼と白眼が半分ずつ生まれた。白眼の変異がX染色体上にあり、伴性遺伝するためと考えると、この現象をうまく説明できる。この結果をより普遍化すると、染色体と遺伝との関連性が明確に示唆されていると言える。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.eekqgu.org/blog/mt-tb.cgi/1255

About

2009年06月19日 06:43に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「阿片戦争」です。

次の投稿は「制限行為能力者」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35